蓮井内科医院
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2006年06月28日

B級グルメ

 美食家のことをグルメという。
 B級グルメという言葉があるが、A級グルメという言葉はあるのだろうか。
 美食家即グルメで、美食家の「ような」者をB級グルメというのだろうか。用語の使用例を思い浮かべると、どうもそんなに単純ではなさそうに思える。
 美食家は、材料の産地やそれぞれの特徴に通じていて、調理法から、器の特徴、文化的な発祥の経緯、味の伝承変化にまで詳しく目配りの聞いた人なのでしょう。
 当然、出される料理にもそれだけの陰影と物語があり、食する人も当然その場にA級として存在するのでしょう。
 残念ながらそのような料理を食したことがないので、美食家の範疇には入れない当方としては、B級グルメ(自称)として料理を味わうことになってしまう。

 B級グルメの対象にする物は、当然容易に口にすることができる料理になる。この場合の最大の関心は、美味いか不味いかであり、料金が味に対して妥当かどうかにもなる。また、必然的にめずらし物はない。食べなれた者の中での、微妙な差異を楽しむことになる。また、裏返しの意味で、飾り立てた物は、器であれ、取るに足らない小物にいたるまでも、B級的センスを好むようになる。どうも考えてみると全てに「緩く」対応しているようだ。ただ拘っているのは、その時と場所で、気分好く、美味いと感じるかどうかにかかっているようです。勿論、自分のB級度は棚に挙げて。 
 緩く、ゆるく。

2006年06月26日

雨が降る

 今年の梅雨はしっかりと雨が降る。
 窓の外の緑と、梅雨特有の雨脚を見ていると、傘を差して歩きたくなる。この気分は昔からのものだが、誰でもそうなのだろうか。雨の中をわざわざ出歩きたくもないというのが多くの人の感覚なのかもしれない。
 自分の中の閉所恐怖症が、雨で締め切った部屋の中を耐え切れなくしているのかもしれないとも思う。また、「雨が降ります雨が降る。遊びに行きたし・・・」と童謡にあるような自分の幼児性によるものかもと思ったりもする。きっと両方なのでしょうが、雨に外に出ると、ひんやりした空気の肌触りと、雨に洗われた清々した景色と気分,匂いまでも味わうことができる。
 雨のときは気圧が低いので気分、神経が落ち着かされているのかもしれない。こんなときは一人になるのが一番だと思う。

 傘は、こうもり傘も音が消されて落ち着くものです。それでも、時には、番傘で歩きたくなるのは、子供のときの記憶でしょうか。子供の時には、番傘は重たく感じて扱いにくいものでした。パラパラと雨をはじいてうるさいと感じていました。それでも傘を開いたときの油の匂いは雨の匂いと一緒になって記憶に残っています。最近は番傘も実用では手に入りにくくなっているようですが、梅雨時の雨には、また番傘で歩いてみたくなります。
 足元は、下駄よりは長靴か、防水のスニーカーが希望です。わがままですけれども。

2006年06月23日

黒い瞳

 昔、「黒い瞳」というタイトルの歌があったように思う。外国の曲だったように記憶している。もともとのタイトルは、知らない。「黒い瞳」というのは、直訳かもしれないし、日本向けのタイトルかもしれない。直訳であれば、外国人にとっては、黒い瞳は魅惑の対象になるのだろう。日本でも魅力的とは思うが、当たり前すぎて気にならない。外国で意識されるのは、他の色の瞳も多いからなのだろう。
 左右の瞳の色が違う猫を見たことがある。飼い主は、「瞳の色の違う猫を飼っていると、何かいいことがある」といわれているるがまだ何もないと笑っていた。青い瞳と、金色の瞳を左右に持つ猫は、珍しいけれどもそこそこの数はいるのだろう。
 瞳の色には、何種類かあるようですが、この違いは何が原因なのでしょうか。遺伝的に決まっているといわれそうですが、本当に沿うでしょうか。

 動物には、黒色の元になるメラニンを作る細胞があります。しかし、緑色や、黄色の色素を作る細胞は知られていません。そうすると、瞳の色は、黒の程度によって決まっているのではないでしょうか。メラニンの量が少なければ、瞳を構成している種々の成分の素材の色が出てきているのではないでしょうか。 三原色の成分さえあれば、全ての色ができます。三原色は、赤、青、緑だったと思います。人間の場合、赤は赤血球の色でしょうか。人の赤血球は鉄を含んでいますから、赤くなります。イカ、蛸などの血液は銅を成分にしていますから、緑になります。二色の瞳を持つ猫は、それぞれの目を構成する素材が違っていたのでしょうか。目は一度出来上がればそう構成成分の入れ替わりはないのかもしれません。替われば、瞳の色も変わるでしょう。黒い瞳の場合には、メラニンが減ってくれば、色も変わってくるかもしれません。入れ替わりがあればの場合ですが。
 私の瞳は替わっているのかどうか定かではありませんが、髪は、はっきりと替わっているようです。メラニンを作らなくなったようです。髪の毛の素材の色は、白なのでしょう。
 最近は、ピンクの髪もよく見かけますが、これは素材が増えたりしたわけではないようです。もちろん、遺伝子の所為ではありません。 と思っていますが。??? 

2006年06月19日

スローガン

 スローガンは、意図的に作られている。意図的に作られたものをスローガンというのかもしれない。商品コピーは、はっきり意図的に作られたものです。この二つはどう違うのでしょうか。
 キャッチコピーは、宣伝、広告などの、何かを伝えるために作られた文章なり、言葉なのだそうです。その基本は、どうも独創性にありそうです。江戸時代に「引札」という宣伝チラシがあったそうですが、それにかの平賀源内が、独創的な戯文を書いて耳目をひきつけたのが始まりとされているようです。その後、戯作者たちが続いたとのことですが、大衆の耳目をひきつけるという目的のためには、新規性、独創性が必要だったのでしょう。二番煎じでは目的を達せられません。
 スローガンは、組織、団体の理念や運動の目的を、簡潔に言い表した文句とのことです。スローガンは組織の内側に向けられた言葉のようです。そうだとすると、新規性や独創性は必要なくなります。いや、あったら困るのかもしれません。集団の構成員がまとまればそれでいいのです。語源は、鬨の声(war-cry)だそうです。鬨の声ですから、いつもの決まり文句でいいのでしょう。さらに、スローガンは、集団や組織の行動指針を表す言葉としてのモットーとも区別されているようです。すなわち、スローガンは宣伝的な標語だそうです。

 モットーは日常の行動指針ですから、外に喧伝する必要はありません。それが、対外的に正しいか否かは、別の問題になります。(最近、日銀の内部行動指針と外部との判断基準のズレが問題になっています。対外的なことに内向きの基準で議論しても始まらないと思いますがどんなものでしょう。)
 それに対し、スローガンは、内部を固めるための外向きの掛け声のようですから、内容は何でもいいような感じです。「エイエイオー」でも「お前のカーちゃん、でべそ」でもいいように思いますが、内向きの実態とかけ離れた美辞麗句が使われています。あれは、自称だったのですネ。スローガンの外側にいる身には、づっと違和感がありました。語源が判れば、随分納得のいく思いです。
 キャッチコピーは、はっきりと、外側の人を誘い込むために作られています。コピーの優劣と、対象(商品など)の優劣は別のものでしょう。しかし、独創的なコピーは、一人歩きしてしまいます。スローガンの代わりにキャッチコピーを使われると、怖いですね。かなり用心深く対応しないと惑わされてしまうかもしれないと思います。
 
 

2006年06月17日

病気と病人と病名

時々、「気のせいだ」と云われたという患者さんにであうことがある。「すみません、それはきっとこういうことでしょう」と説明することになる。気のせいだと云った医者が本当にそういったのか、患者さんがそう受け取ったのかは判らないが、ありそうなことだとは思う。最近の医療は、数字が一人歩きしすぎているのかもしれない。数字が悪いのでは無く、理解の仕方と利用の仕方がおかしいのだろうと思う。血液検査の数字が正常値(正確には基準値といいます。)が、基準に収まっているから病気ではないと受け取ったり、X線検査(たとえばMRIなど)に以上が無いから心配ないと放置することになるのかもしれない。また、何か症状があり、検査をうけても異常が見つからず「、○○には異常が無い」というつもりが、後半だけ伝わったということもあるだろう。また「精密検査を受けてはっきりしたら、何かやりようはあるのでしょうか」とたずねられて、「問題ないです」と答えて、「どうしようもない」と受け取られることもあるでしょう。

上のようなことは、言葉の伝わり方の問題ですが、もう少し基本的なことがあるかもしれません。病気とは、定義を決めて(線引き、枠を決めて)、それに当てはまるものを診断(病名をつける)します。患者さんが訴える症状が、その病気の定義に当てはまらずに、他の病名にも当てはまらない場合に「気のせいだ」といわれる可能性があります。特に専門医は、特定の病気を専門にしていますから、それ以外は守備範囲でないといわれる可能性もあります。最近は、マスコミなどで病気の解説が多く見られますが、患者さんが自己判断で病気の当たりをつけることも多いかも知れません。たぶんすべて当てはまるように感じるでしょうが、外れていることのほうがることが多いのではないかと思います。教科書に載っているような病人はいません(症状が同時にそろって出ることはまずありません)。
大きな二重丸を書き、内側の○の中に小さな○をたくさん書いてみてください。小さなたくさんの○が病名です。その外の○に囲まれる人が、病人です。病気(病名)はすべてをカバーしていません。病名のある人が病人(病気の人)ではありません。逆です。
病気は気がつかないうちに始まっています。なにか症状があれば追求するべきです。

2006年06月14日

肺炎球菌ワクチン

 肺炎は、いまでも重大な病気です。
 特に、高齢の方には、怖い病気です。年齢別の肺炎による死亡者数を見てみますと、70歳を過ぎると、十万人あたりの死亡者数が、60歳代で約70人、70歳代で約360人、80歳代で約2000人、90歳代以上で約2900人というふに増えてきます。
 高齢になってきますと、慢性心臓病や、慢性の呼吸器疾患、腎臓病や糖尿病などを持っている人が増えてきます。それらの病気を何とかコントロールしていても、肺炎にかかってしまうと抵抗力はあまり強くはありません。症状がはっきり現れなかったり、急に進行したりして、抗生物質などの治療が間に合わないこともあります。
 日常生活をしているときに罹る肺炎の原因は、肺炎球菌が約40%を占めます。
 この細菌は、肺炎、気管支炎、副鼻腔炎、中耳炎、髄膜炎などの原因になります。ペニシリンなどの抗生物質が効きます。

 しかし、最近は抗生物質が効かない、耐性菌が増えてきています。
 予防としては、手洗い、うがい、入浴など清潔を保つことと、散歩、日光浴などの体力を保つことなどがあります。
 さらに、高齢の方、腎臓や肝臓の悪い方、心臓や呼吸器に慢性の病気のある方などは、肺炎球菌に対しては、ワクチンの予防注射が可能です。効果は80%(感染した人の8割の人は発病を防げる)です。1回の接種で約5年間免疫が持続します。

2006年06月13日

職業とはなんだろうか

 最近、日本人の職業意識がおかしくなっているのではないかと感じることが多くなりました。金を儲けて何が悪いと云った人もいます。書類、報告を創作して、ばれるとまだ正式文書ではないという人もいます。報告が来ていない、聞いていないという人もいます。責任をとるつもりもないようです。一応、きちんとした職業と目される人達でもこんな有様です。教育がおかしいという前に、自分たちの行動を見つめなければだめでしょう。子供の目には、建前ということはなく、異常が正常に映ってしまいます。
 職業をどう行うかは、かなり定義づけが難しいし、人それぞれかもしれません。
 かって、夏目漱石は、「人のためにするのが職業」と定義づけたそうです。自分のためにすることは、「趣味、道楽」です。日本的な感覚では全くの正当な考え方と思いますが、いかがでしょうか。他人に対しての仕事に徹することで、自分が存在することができるという考え方です。金銭は付随して入ってきます。金銭は、意識的に稼ぐものではありません。ところが、始めに書いたようなことを言う人達が増えてきたように思えます。何か変な感じを持ってしまいます。

 現在の日本人は、物事の尺度を単純にしすぎているのではないでしょうか。自分のために働く、自分のしたいことが見つからないという話を聞きますが、これは、自分の趣味、道楽が見つからないといっているようなものです。もし見つかって、実行しようとすれば、金銭的には出費になるはずです。
 大店の主人が義太夫節に凝って、自分の語りを人に聞かせたいと思う落語があります。そのために、酒肴を用意して、店子に案内を出すという噺ですが、これが世の中の道理でしょう。主人はそれでもかなり苦労をする羽目になりますが。
 他人が希望していることで、自分ができることをする。これは、最近では、ボランティアというのこも知れませんが、世の中の人が望まないことを職業にできるわけはありません。やれば犯罪です。この立場に立っても最近はおかしな物言いが流行っています。法的責任はない云々。
 物造りも、芸術作品も同じことではないでしょうか。他人と同じ構図で絵を描いて、色が違うという画家がいました。これは、人には売らないでしょうね。もし、持ってもらうのなら、酒肴付きでお願いしたのでしょう。買った人は、自分で望んだのでしょうか。値札の額が気に入ったのでしょうか。
 仏教では、「亡己利他」(もうこりた)というのだそうです。世間では「もう懲りた」。職業としての仕事の意味を考える必要はないでしょうか。金が全てでは、狐につままれたままなのかもしれませんし。 ネ・・・。

2006年06月09日

自画像

 有名な多くの画家は自画像をかいているようにおもう。いや、はほとんどの画家は自画像を描いているのではないだろうか。絵で自己表現をしているのであれば、今の自分を表現するのにもっとも直接的なことは、自分を対象にして絵を描くことだろう。画家に知り合いはいないので聞いてみたことは無い。多くの自画像があるということは、普通の作品を通してされる評価には充分には満たされず、もっと直接的に自分を書くことで自分の意思なり感情なりを訴えているのかもしれないなどとつい思ってしまう。もっとも私が気になっていることは、もっと単純なことです。それは、画家は自画像を描くときに、鏡を見て書いているのだろうか、写真(あればの話ですが)を見て書いているのだろうか、それとも空想(抽象)で書いているのだろうかということです。多くの自画像は向かって左向き(自分の顔の左側)を描いているほうが多いように思うが、右向きの自画像もあります。これは、右利きの画家が多いからかも知れませんが、そんな単純なことではないかもしれません。

 もし、鏡を見て、右利きの画家が自分の顔を書いているとすれば、自分の左側に鏡を置き、右側にキャンバスを置いて描けば、自分の左側の顔が鏡に映り、それを見て、右手でキャンバスに描いていけばその絵は、向かって左向きで、その画家の右側の顔を書いているように見えるが、実際は左側の顔を書いていることになるはずです。その出来上がった作品を、画家は満足しているとしても、鑑賞者は、実際の顔も作品も見ることができるので、絵の精神性や完成度は別にして、その絵が似ているかどうかははっきりと判ると思うのです。私は、自分の顔を鏡で見るときと写真で見るときに変な違和感を持つことがあるのですが、画家はどうなんでしょうか。ゴッホにしろ藤田にしろ、あの自画像と同じようだったのでしょうか。できることなら、他人が描いた肖像画と見比べて見たいものだと思います。

2006年06月01日

UFO

 最近、イギリスの国防省が、意図的にコントロールされた未確認飛行物体は確認されなかったと発表したそうです。ほとんどは、自然現象で理解できることだったのでしょう。
 私も、あれがUFOなのかなと思う物を見たことがあります。
 あれは「タロー」(犬です)と散歩をしていたときですから、もう十数年前になります。季節も覚えていませんが、寒くは無かったのでちょうど今頃の時期だったかもしれません。背後から南の山の端へ、音も無く本当にスーという感じで飛んで生きました。夕暮れにはまだ間のある時刻でしたが、西の空の色が少し変わりかかった時で、雲もほとんどありませんでした。不思議な感覚だったのは、距離とスピードの感覚が全くつかめなかったことです。アレーというような感じのうちに山の向こうに行ってしまいました。結構時間はあったような気がしますが、実際には十秒前後だったかもしれません。

輪郭のはっきりしたオレンジ色か黄色い電燈のような色でした。きらきら反射するようなことも無く、一色で濃淡も無く、また尾を引くようなこともありません。ジグザグに進むことも無く、ましてや着陸するような気配もありませんでした。あったらむちゃくちゃ恐怖だったでしょうけれども。前後径は、上空を飛んでいるジェット機の二、三倍位でしょうか。横径はその半分くらいです。高さの見当は、はっきり見えているのに全くつきませんでした。やはり成層圏外だったのでしょうか。
 UFOといわれたものの大部分は、彗星か「火球」といわれるものだそうですが、これが「火球」なのでしょうか。火球というものがどんな風に見えるものか知りません。しばらくの間は、ニュースで何か報道されるかと注意していましたが何もありませんでした。
 その後は全く出会っていませんが、もう二、三度は見てみたいし、ゆっくり観察もしてみたいと思っています。
 自然現象でしたら、出会うのは偶然でしょうけれども・・・。

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